2015年12月26日土曜日


正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐ループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い 人=軍民分割統治=団結させない個人主義教育の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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『正統史観年表で一番拡散したいこと』

「日本は悪かった」という自虐史観には下記4つの種類があります。
冷静になって下記4つを分けて考えてみる必要があります。

【1】政治・軍体制
【2】一つ一つの軍事作戦の不備・・・【手段】
【3】戦争中の犯罪・・・【手段実行中の犯罪】
【4】事実経過の大きな流れ・・・【原因と目的】

―――――――

【1】政治・軍体制(すでにネットで、かなり語られている)
どんな政治・軍体制であろうと戦争は起きます。
自衛側であれば攻撃を受けているわけですから
政治・軍体制に関係なく自衛するしかありません。

【2】一つ一つの軍事作戦の不備(すでにネットで、かなり語られている)
一つ一つの軍事作戦の不備は敵味方に関係なく発生します。
完璧な軍事作戦などないでしょう。何か反省点はあるはずです。
敵味方に関係なく世界の戦史を研究して教訓にすればいいでしょう。

【3】戦争中の犯罪(すでにネットで、かなり語られている)
戦争中の犯罪も敵味方に関係なく発生します。
敵味方に関係なく世界の戦史を研究して教訓にすればいいでしょう。

【1】~【3】については、すでにネットで、かなり語られています。

しかし、問題は【4】です。
【4】の『事実経過の大きな流れ』の「事実」が、
いまだに隠されているというか、あまり語られていません。
まったく周知されていないと言っても過言ではありません。
一番、周知されなければならない重大な事実です。

ですから、ここで【4】の『事実経過の大きな流れ』を説明いたしますので、
「政治・軍体制が~」・「軍事作戦の不備が~」・「戦争中の犯罪が~」
という別の問題へと思考を向かわせず、
『事実経過の大きな流れ』・『原因と目的』を知っていただいて、
自衛であったことを理解していただきたいです。

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『大東亜戦争の大まかな流れ』

大東亜戦争は、日本は何も悪いことはしていなかったのに
不法な武力攻撃を受けて始まった戦争です。
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欧米人・欧米軍と同様に、
日本人・日本軍も条約で合法的に中国に居たのですが、
蒋介石軍が日本軍・日本人に不法武力テロ攻撃してきたから
日本軍は応戦・反撃していました。
(1937.7.7盧溝橋事件や1937.8.13~第二次上海事変)
日本からの和平提案を蒋介石が拒否し続けていたから戦闘が長引きました。
長引いた理由は英米が蒋介石に資金・武器支援していたからです。
日本は、英米が蒋介石に武器を輸送する援蒋ルートを遮断するため、
仏印と条約を結んで仏印に日本軍が合法的に進駐して
援蒋ルートを遮断すると、
英米が、被害側である日本に対して石油禁輸してきたので、
日本は蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
先手を打って真珠湾攻撃しました→日米戦争。
1937.7.7盧溝橋事件もしくは1937.8.13~第二次上海事変から始まる支那事変
と1941.12.8~日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。
―――――――
日本はルールを守り、何も悪い事はしていなかった。
↓↓↓
中国側(蒋介石)がルールを破って違法なテロ攻撃をしてきた。
↓↓↓
その違法なテロ側を欧米がテロ支援していたことが合法であるはずはない。
↓↓↓
英米の資金・武器支援があるから
蒋介石は日本からの和平の打診を拒否し続けた。
↓↓↓
日本は援蒋ルートの合法的な遮断に努力していた。
↓↓↓
それに対して米英欄が経済制裁・石油禁輸してきた。
↓↓↓
それを受けて日本は蘭印の石油を武力で確保する決断に至った。
↓↓↓
その前に先手を打って
ハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために真珠湾攻撃。
↓↓↓
日本は負け、紛争当事者の一方である戦勝国が東京裁判で裁判官となり、
すべての責任を日本にのみ求め、
事実とは違う政治的な決着の歴史を押し付けられている。

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大東亜戦争にいたるまでの説明図 http://bit.ly/1P1UDZX http://bit.ly/1RMhlYK
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-706.html
http://blog-imgs-90.fc2.com/s/e/i/seitousikan/20151214081352ded.jpg
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日本の戦国時代(1467年・応仁の乱~1614年・大坂冬の陣)のあたり、
アメリカのインディアン、アフリカ、アジアなどが
着々と白人に侵略されていくなか、日本は侵略されませんでした。
その一番の理由は軍事的抵抗力があったからです。
日本は当時まさに戦国時代にあり、
世界において日本は最強国に属していたのです。

その後、江戸の平和な時代が長らく続き、
武器・防具などは美術品として高められましたが、
引き続き国防に力を入れ続けておけば、1853年に来航した
黒船をはじめとする白人列強を追っ払えたかもしれません。

ほかのアジアのように欧米列強に日本が侵略されないように、
天皇陛下を頂点として一致団結して欧米列強のシステムに合わせて
体制を整えて生き抜こうとしたのが明治維新でした。
明治維新は日本独立維持のためだったのです。

ロシアは南下政策で南進して来る。
中国は各地に多くの軍閥があって
完全に統一された国とはいえない状態であり、
白人による半植民地化が進んでいる。

頼りない中国の属国「朝鮮」のままだと、いずれ朝鮮も白人の植民地、
特に南下政策を進めるロシア領になってしまう恐れがありました。

日本としては朝鮮半島は独立した国として
中国のものでも白人のものでもなく、
日露のあいだにある独立した緩衝地帯であってほしい。
日本から見れば朝鮮半島はロシア南下の防波堤だったのです。

【1894年~1895年・日清戦争】
1894年、朝鮮で「東学党の乱」という内乱が起きたとき、
中国は朝鮮の内乱を鎮圧するために朝鮮に中国軍を派遣しました。
中国が日本に通知してきた文書には
「属国を保護するために出兵」と書かれていました。
これは日本が受け入れられるものではありませんでした。
日本は、朝鮮が清国の属国であることを
認めるわけにはいかないため、朝鮮に兵を送り「日清戦争」となりました。

両国の宣戦布告文の主張
【日本】
朝鮮はわが国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに、
清国は常に朝鮮を自分の属国といって内政に干渉し続けている。
【清国】
朝鮮はわが大清国の藩属たること二百年、毎年朝貢している国である。

日清戦争の結果、日本が勝ち、1895年4月17日、戦後処理条約である
日清講和条約(=下関条約=馬関条約)が締結され、
朝鮮が独立国であることが確認されたと同時に、台湾を得ました。
◆第一条
清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、
独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は
永遠に廃止する。
◆第二条
清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。
―――――――

【1904年2月8日~1905年9月5日・日露戦争】
ロシア南下に抵抗してもらうために日清戦争して朝鮮を独立させたのに、
今度は、朝鮮国王はロシア公使館に亡命してロシアの属国となり、
ロシアは朝鮮内に軍港を作りはじめました。
ロシアが1891年に建設を始めたシベリア鉄道は完成に近づきつつあり、
シベリア鉄道が完成すればロシアの兵員・物資の移動が格段によくなります。
日本の10倍の国家予算を持つロシアが極東に強大な軍隊を配置すれば、
とても日本は太刀打ちできません。侵略されてしまいます。
そうなる前に、何としても侵略を阻止するため、
先手を打ってロシアに戦争をしかけたのが日露戦争です。
結果、日本が勝利し、日露戦争の戦後処理の講和(平和)条約の
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』により、日本は沿海州沿岸の漁業権、
ロシアの樺太北緯50度以南の領土、朝鮮半島の優越権、
ロシアの関東州(旅順・大連を含む遼東半島南部)の租借権と、
長春~旅順間の南満州鉄道とその両側35m~15km(鉄道付属地)と、
その範囲内にある炭坑、日本の鉄道守備隊が南満州鉄道と沿線付属地域の
警備をする権利を得て、鉄道守備は満州の左隣の関東州の日本軍が担当し、
1905年12月22日、満州善後条約により日本の満州権益を清国も了承しました。

【1910年・日韓併合】
日本はロシア南下等に対抗しようとして日清戦争したのに
朝鮮は清属国から今度は露属国になったことで日韓併合論が起こりました。
日韓併合反対頭目の伊藤博文が韓国人に暗殺されたことや、
日本が義和団事件の功績でイギリスと同盟を組み、
ロシアをも倒したことで朝鮮の政治家等が親露反日から知日に変わり、
韓国側から日本に日韓併合を打診してきて、
「日韓併合条約(1910年8月22日 調印)」により
朝鮮半島は日本領となりました。つまり日本にとって
日韓併合はロシア南下に抵抗するための自衛だったのです。

【1914年~1918年・第一次大戦】
イギリスからの参戦要請があったので、
日英同盟の維持→日本独立維持のため出兵。

【1915年・対華21ヵ条の要求と日華条約】
辛亥革命(1911年)で清国が倒れて翌1912年に中華民国が成立したので、
清国時代に日清戦争の下関条約や日露戦争のポーツマス条約、満州善後条約
などで日本が得ていた支那や満州の権益の確認と、米英の介入や支那の排日で
非常に不安定になっていた日本権益を確固たるものにし、支那における
欧米列強の影響力を抑制しようとしたのが『対華21ヵ条の要求』であり、
その内容は欧米列強の権益と同程度か、むしろ温和なものであり、
特に新しい権益を要求したものではありませんでした。
そもそも日本と中華民国が要求を出し合いながら話し合い、
両国が納得して成立した『日華条約』を
他国が どうのこうの言おうが関係ありません。

「条約」というものは常に対等な立場で結ばれるとは限りません。
「条約」は侵略ではありません。
条約を結ぶまでの過程、話し合いにおいて相手に希望を言う「外交交渉」
のなかでの要求は侵略とはいいません。
結果的に16条に減りましたし、要求してその一部を相手に認めさせることは
「外交交渉」であって「侵略」とは言いませんし普通の事です。

【1931年~1933年・満州事変
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-334.html
日本の満州権益は1904年2月8日~1905年9月5日の日露戦争の戦後処理条約
『ポーツマス条約(1905年9月5日)』や『満州善後条約(1905年12月22日)
によって得られた正当なものでした。
1931年9月18日、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、
敵兵が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)。
現場に駆けつけた日本の鉄道守備隊(関東軍)に
対しても敵兵は攻撃を仕掛けて逃げました。
日本の鉄道守備隊は軌条に沿って追いかけ、
敵兵は張学良の本拠地である北大営に逃げ込みました。
その北大営からも日本の鉄道守備隊に銃撃してきたので、
関東軍が本格的に報復軍事行動を起こして満州事変が勃発しました。
攻撃されて反撃するのは国際慣習法上の自衛行為です。
このように柳条湖事件は「犯人は支那軍」というのが本来の通説であり、
日本(関東軍)犯行説が出たのは大東亜戦争後です。
関東軍指導者が殆ど逝去された後に、
本当かどうか検証のしようがない「証言」のみが出て、
なぜか通説になってしまっている状態です。
物的証拠も状況的証拠も確たるものはなく、
主犯とされる石原莞爾も一貫して否定しています。
1931年9月15日、奉天総領事の林久治郎が「推察」として
「関東軍が近く軍事行動を起こす」旨の機密電報を幣原外相に
送ったことにより、それを抑えるためとして建川美次少将が満州・奉天に
派遣されますが、「推察」の根拠が検証されなければ
証拠にも論拠にもならず、派遣されたこと自体は何の根拠にもなりません。
鉄道爆破・守備兵襲撃などされたら応戦膺懲するのは当然の事であり、
鉄道破壊犯討伐という鉄道守備の行動でした。

それ以前も満州内では張学良による排日政策が行なわれていましたし、
日本人や日本の関係施設などが、さまざまなテロ攻撃を受けていました。
(下記URL記事は見解が統一されていない部分があります)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-111.html

しかも、その武装盗賊テロ集団に武器や資金の支援をしていたのは
アメリカ(→張学良や中国国民党を支援)や、
ロシア(→共産パルチザンを支援)でした。

5ヵ月後の1932年2月上旬にはテロ集団を満州から追放する事に成功し、
満州の治安は回復。
その後も満州-支那の国境付近で張学良軍や中国国民党軍が
テロ攻撃してくるので、それらを排除する作戦などを行ない、
1933年2月初旬、熱河作戦。
1933年5月3日~25日、関内作戦。

1933年5月31日の『塘沽(タンクー)停戦協定』で満州事変は終結しました。

満洲事変は1933年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定で終結していたので、
4年後の1937年になって満洲事変を理由に盧溝橋事件や第二次上海事変など、
まったく別の場所で武力攻撃を仕掛けてくることは不法です。

【1937年~大東亜戦争】

1931満洲事変―――1933塘沽停戦協定で終結

1937支那事変(中国大陸)―――――――――――1945終結
―――1939第二次欧州大戦(欧州)―――――――1945終結
――――――1941日米直接戦争(太平洋)――――1945終結

↓↓↓

1937支那事変+1941日米戦争=大東亜戦争

―――――――――――――――――

アメリカ←←←←←1941年12月 日本は蘭印の石油を武力で確保する決断。
↓            ハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるため、
↓            先手を打って真珠湾攻撃

資金武器支援←←1941年7月 日本からの和平提案を蒋介石が拒否し続けた
↓           理由はアメリカが蒋介石を支援していたからだ。
↓           日本は仏印と話し合って条約で合法的に
↓           日本軍は仏印に進駐し、アメリカが蒋介石に
↓           武器を輸送する仏印の援蒋ルートを遮断
蒋介石
↓   ↑
↓   ↑
攻撃 反撃 → 1937年8月13日~第二次上海事変が本格的な
↓   ↑      支那事変の始まりであり大東亜戦争の始まりであり、
↓   ↑      蒋介石側から上海共同租界の日本人町を攻撃してきた。
↓   ↑
 日本  ←←←←←1941年8月 アメリカが日本に対して石油禁輸
※欧米と同じ条約による軍駐留であり、日本軍は欧米軍と一緒に役割分担で
協力して自国民を守っていたのだが蒋介石軍は日本軍・日本人だけを標的に
攻撃してきた。そしてその蒋介石を支援していたのは欧米だったのだ!怒れ日本人!

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大東亜戦争にいたるまでの説明図 http://bit.ly/1P1UDZX http://bit.ly/1RMhlYK
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-706.html
http://blog-imgs-90.fc2.com/s/e/i/seitousikan/20151214081352ded.jpg
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欧米人・欧米軍と同様、日本人・日本軍も条約で合法的に中国に居た。 http://bit.ly/1QAL1sU
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-708.html
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1900年・義和団の乱で中国軍と義和団が外国人多数を虐殺したので
欧米日8ヵ国軍が出動して鎮圧し、以後、欧米軍と同じ条約で
日本軍も自国民保護のため中国に駐留していました。
欧米人・欧米軍と同様、
日本人・日本軍も条約で合法的に中国に居ました。

1936年(昭和11年)12月12日の西安事件により、
アメリカが支援する蒋介石(国民党)と
ソ連が支援する毛沢東(共産党)が第二次国共合作をし、
合法居留の日本人・合法駐留の日本軍に対して
盧溝橋事件(1937.7.7)や第二次上海事変(1937.8.13~)などで
攻撃をしてきたのが支那事変の始まりであり大東亜戦争の始まりでした。

◆1937年7月7日、盧溝橋事件
条約による合法駐留の日本軍に対して
中国軍(宋哲元29軍)が武力攻撃してきました。
7月11日20:00『松井-秦徳純・停戦協定』が成立。
この盧溝橋事件が支那事変・大東亜戦争の始まりとされていますが、
それまでも中国側は散発的に日本に対してテロ事件を起こしており、
盧溝橋事件も単なる地方軍閥(宋哲元29軍)との軍事衝突事件で、
一連のテロ事件の一種と考えて差し支えありません。
しかも蘆溝橋事件は1937年7月11日20:00の
『松井-秦徳純・停戦協定』で終了しています。
盧溝橋事件があったからといって、
上海共同租界を攻撃していいということにはなりません。
上海共同租界は日本領ではありませんし、
日本の専管租界でも日本の租借地でもありませんでした。
上海共同租界は国際的な共同租界であり、そのなかに日本人が住み、
比較的、日本人が多く住んでいた日本人町もあったということです。
日本人町には日本人だけでなく欧米人も中国人も住んでいました。
上海共同租界の国会にあたる参事会14人の構成は、
イギリス人5人、アメリカ人2人、日本人2人、中国人5人でした。

大東亜戦争の実質の始まりは第二次上海事変です。 http://bit.ly/1jF8ES3
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-702.html

◆1937年8月13日、第二次上海事変。
中国軍(蒋介石軍)3万人が「1932年の上海休戦協定」に違反して
協定線内に侵入し、上海共同租界の日本人居留区域を包囲し、
条約による合法居留の日本人町に対して武力テロ攻撃をしてきました。
上海共同租界内の警備は役割分担で米英伊軍とともに
日本海軍陸戦隊も警備に当たっていました(仏租界は仏軍)。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-689.html
中国の租界
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-43.html
日本海軍陸戦隊は日本人居留区域を含む地域の警備に
当たっていたのですから応戦して当然です。
日本本土から援軍(上海派遣軍)が上海へ向かい、
蒋介石軍を追い払いました。
蒋介石は南京に逃げたので、増援の第10軍とともに南京を攻略。
蒋介石が武漢に逃げたので、日本軍は追撃して武漢も攻略。
次に蒋介石は重慶に逃げました。
日本軍は地上軍による重慶攻略を計画しましたが、
重慶が天然の要塞の地であることや兵站の問題もあり、
即時攻略は困難であるという結論に達し、重慶爆撃を行ないました。

中国には条約で欧米人・欧米10ヵ国軍もいたのに、
中国は、同じく条約でいた日本人・日本軍だけを攻撃してきました。
日本側は中国側に何度も和平を打診していたのですが、
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-554.html
アメリカが中国(蒋介石)に資金・武器を支援し続けていたので、
蒋介石は日本からの和平提案を拒否し続けました。
アメリカが蒋介石に武器輸送していた援蒋ルート(蒋介石支援ルート)を、
日本が仏印と条約を結んで日本軍が合法的に仏印に進駐して援蒋ルートを遮断
するとアメリカは、合法側・被害者側の日本に対しては
石油禁輸などの経済制裁を仕掛け、
中国大陸から日本だけ出て行けと、不当な事を言っていました。
日本は石油などの資源がないと国として立ち行かなくなるので、
蘭印の石油を武力で確保する決断をし、
その前にハワイのアメリカ艦隊が来るのを遅らせるために
真珠湾攻撃をして日米戦争となりました。
このように大東亜戦争は日本へのテロ攻撃で始まり、
日本への原爆テロ攻撃で終わりました。
支那事変から日米戦争までを総称して大東亜戦争といいます。

日本は攻撃されたから応戦、反撃したまでで、
攻撃されなかったならば「アジア開放のため」という理由だけで
日本から米英に戦争を仕掛けるはずはありませんでした。
1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された
大東亜共同宣言で日本はアジア諸国の独立を承認していますので、
国際法上はアジアを解放したといえますし、同共同宣言において、
それを成すための戦争継続が明記されていますので、
アジア解放戦争で間違いありませんが、
日本からすればアジア開放が第一の目的ではなく、
第二次上海事変や援蒋、対日経済制裁という原因あっての大東亜戦争であり、
第一の目的は自存自衛であって、アジア解放はいわばその手段とも言えます。
(アジア開放で自由貿易できるようにして資源確保で生き延びるという事)
★昭和天皇の【大東亜戦争 開戦の詔勅
を読んでも同じ認識でいらっしゃる事がわかります。
↓↓↓
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-636.html
戦争遂行のために敵地から物資を頂戴することは禁止されておらず、
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-667.html
敵・白人列強の持ち物である東アジアを奪取したのですが、
日本はそこを植民地にはせず大東亜共同宣言で独立を承認しました。
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-680.html

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「コミンテルンの工作が~」について。 http://wk.tk/v4uTRc
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-704.html
勝率低いから自衛しない? http://bit.ly/1ml1X9M
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-707.html

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下記3つは同内容となっております。

正統史観年表の巻頭 http://p.tl/C7U3
http://seitousikan.blog130.fc2.com/
正統史観年表で一番拡散したいこと http://bit.ly/21WysLO
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-705.html
来る日が来た親御さんへ。子供の質問「日本は悪い国だったの?」 http://wk.tk/exW2Ew
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-701.html

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2015/10/01 07:00|年表リンク用資料
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