2015年12月26日土曜日


正統史観年表

戦前の外国の行動は すべて自然な流れとして批判せず、日本国内にのみ すべての原因を求める自虐史観=完璧じゃなかった自虐ループ洗脳=固定観念=東京裁判史観=戦勝国史観=植民地教育=戦う気力を抜く教育=戦う人は悪い 人=軍民分割統治=団結させない個人主義教育の洗脳を解き、誇りある歴史を取り戻そう!

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東京裁判後、レーリンク判事へのインタビュー

『レーリンク判事の東京裁判』 B.V.A. レーリンク& A. カッセーゼ
小菅信子 (翻訳)、粟屋 憲太郎 (解説) より引用

東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクに、
イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録。

日本人弁護団
日本人弁護団

●C カッセーゼ ■R レーリンク

【判事について】

●C:東京裁判の実施に話を戻しましょう。
判事団はどのように構成されたのですか。

■R:最初、判事は九人しかいませんでした。後で二人加わったのです。
ひとりはフィリピンから、ひとりはインドからです。
インドからパルが加わりました。
彼は真にアジアの態度を代表する判事でした。
フィリピン判事は完全にアメリカナイズされていました。
アメリカと協力するフィリピンの支配階級に属し、
アジア的なところはまったくありませんでした。

●C:判事のなかに他に優秀な法律家はいましたか。

■R:実際にわれわれの間には大きな年齢差がありました。
東京に着いたとき、私は39歳でしたが、
大部分の判事は若い中国の判事を除いて、おおむね60歳前後でした。
彼らは自国では裁判所の判事をしていました。

したがって彼らは国際法廷が国内法廷とは違うということ、
国際共同体は一国の共同体とは異なるので、
国際法は国内法とは違うということを理解するには年を取りすぎていました。

国際法はそれぞれ異なる制度の間で機能するものです。
それは、立法者のいない、判事のいない、主権者のいない法的共同体であり、
垂直的ではなく水平的な社会関係なのです。

したがって、
国内法では有効なことが国際法では必ずしもそうとは限らないのです。

●C:外交官あるいは軍のエキスパートが加わっていましたか。

■R:オーストラリア人の裁判長、ウイリアム・ウェッブ卿
(クインズランド高等法院判事)は政治的な力をもった人物でした。

ニュージーランドのエリマ・ハ―ベイ・ノースクロフト氏は
最高法院判事でした。

ロシアのI・M・ザリャーノフ(陸大法学部長)氏は軍事裁判所の将軍でした。

最初のアメリカ人判事のジョン・P・ヒギンズは、
おそらく自国で判事をしていたのでしょうが、政治家でもありました。
アメリカでは判事は政治的理由で任命されるのです。

しかし裁判が始まるとすぐに辞任してクレイマー氏に引き継ぎました。
彼は軍の司法組織の責任者をしていた人物で、
それほどの権威ではない、そう思います。

●C:どのようにして裁判長は決まったのですか。
他の判事の互選によって選ばれたのですか。

■R:いいえ、そうではありません。マッカーサーに指名されたのです。
だんだんと、彼がとても傲慢で威圧的な人物であることがわかってきました。
われわれ他の判事は、
彼の事件の取扱いについて強く反対した問題が多々ありました。

いざそれを堅持しようという段になると、
非常に難しい立場に追い込まれました。
唯一できることといえば「このようなことを進めるなら、私は辞める」
というのが関の山でした。

●C:他に対抗手段はなかったのですか。

■R:いいえ、ありませんでした。
われわれはほとんど彼と個人的につきあいませんでした。
フランス人判事ベルナールともほとんどつきあいはありませんでした。
ロシア人判事ザリャーノフと同じで、英語がしゃべれなかったのです。

【検察官について】

●C:検察官はたぶんアメリカ主導だったと思いますが…。

■R:そうです、主席検察官はアメリカ人のキーナンでした。
実際、アメリカが裁判の多くの局面で主導権を握っていました。
現実に裁判はアメリカのパフォーマンスだったといえます。
キーナンの指名は政治的なものでした。

彼は母国で検察活動に携わっていましたが、それも二流だったと思います。
彼はしばしば法廷に酔っ払って現れたという噂でした。
私自身はそれに気づいたことはありませんでしたが、
たしかに彼は仕事に専念していませんでした。

これは彼が主席検察官だったことを考えれば重大なことだと思います。
イギリスの検察官のコミンズ・カーのほうが
キーナンよりもはるかに能力がありました。

【被告について】

●C:被告について話してください。印象的な人物たちでしたか。

■R:はい、大部分が一流の人物たちでした。
全員とはいいかねますが、大部分は優れた人物たちでした。

海軍の軍人たち、それに東條(英機・将軍)が
非常に頭がよかったことは確かです。

荒木(貞夫・将軍)のように非常に年をとった者もいました。
広田(弘毅・外交官)も年をとっていましたが
それでも頭はよかったと思います。

東條の演説は別の面で注目すべきものでした。
日本語では目上に話す場合と目下に話す場合、話し方が大きく違います。

英語への同時通訳を聞いているわれわれにはもちろんそれはわかりません。

東條は目下の者に対する言葉を用いて話していたのです。
ある日本の友人がかつてこういいました。

「彼の態度は侮辱的だと思いませんでしたか」。
もちろん、法廷はそれに気づきませんでしたし、
多くのアメリカ人当局者もわからなかったと思います。
個人的には、私は彼の態度を評価します。

とくに東郷(茂徳・外交官、外相)に感銘を受けました。
彼の妻は毎日法廷に顔を見せました。

最前列隅に、2年数ヵ月の開廷期間中ずっと、東郷夫人が坐っていました。
彼女はドイツ人でした。
反対意見で私は東郷の全面無罪を主張しましたので、
東郷夫人にとても感謝されていました。
裁判をとおして、この夫人に会えたことはとても印象的な出来事でした。

【被告と日本人弁護団の態度】

●C:東京裁判の被告の態度はニュルンベルグとはずいぶん違いますね。
ニュルンベルグの被告は国家ではなく、
自分の生命、自分自身の立場を守ろうとしたのですから。

■R:そうです。ドイツでは、人々はなるべくヒトラーから距離をとり、
彼の行為は忌むべきものだといっていました。
ヒトラーを守ろうとするものは誰もいませんでした。

日本人は、アジアと世界で、アジアを解放し、
世界を変えるためにとられた日本の行動を擁護しました。
そして、こうした観点から彼らは行動を起こしたのです。

●C:日本人被告は、いわば一種の宿命論者だったのでしょうか。
あえて有罪となることを覚悟していたのですか。
自分が絞首刑になろうとなるまいと大きな問題ではなかったのですか。

■R:ある人が日本人弁護団の態度を称して、
「被告の墓に優雅に花を手向ける」人々と言いました。
ある意味でこれは事実です。彼らは諦めているようでした。

彼らは戦争に負けたのだから、
自分たちの行動が非難されることがわかっていたのです。

彼らはただ、ある観点からは自分たちの行動が理解され、
おそらくは正当化されることを世界に示したかったのです。

●C:被告たちは自分たちの威厳や名誉を保とうとしていると感じましたか。
つまり、彼らは臆病ではありませんでしたか。

■R:臆病? いいえ、そういう人はひとりもいなかったと思います。
彼らには威厳がありました。

2年以上、彼らの正面にすわっていて、言葉はかわさずとも、
彼らの動きやしゃべっている様子はわかりました。
彼らには信条がありました。

あなたが日本人の内側に身をおいてみれば、
彼らの多くが大衆に尊敬されていたことが理解できるでしょう。

●C:被告人についてわからないことは、
実業界の関係者がひとりも含まれていないこと、
それに天皇が訴追されなかったことです。どうしてなのですか。

■R:経済帝国主義を拡大するために戦争を支持したことで
財閥を訴追すべきだという議論があったのです。

しかし、実際、財閥は戦争が起こらなくても、
日本はしだいにもっとも強大な経済勢力になり、
アジアの周辺地域での核になることはわかっていたのです。

ですから彼らは戦争に関係なく、日本の明るい未来をみていたのです。

彼らは戦争がその発展を妨げると確信していましたし、
それゆえ戦争に反対しました。
彼らが裁判にかけられなかったのはまったく正しいと思います。

●C:そうするとあなたの見解では、
実業界の関係者を裁判から除いたのは政治的意図からではなかった、
ということですね。

■R:いいえ、ただ彼らを訴追する事実がなかったからです。
天皇、それは国家の象徴でした。
日本人は天皇を日本の真髄と考えていました。

しかし、彼には何の権力もなかったのです。彼は立憲君主でした。
日本でどのように事態が処理されていたかをみれば、
政府が戦争の決定を下したことは明らかです。

そしていったん政府が決定を下した後に、
天皇は登場を要請され、同意を求められたのです。
彼にできたことはただそれだけでした。

●C:天皇免訴の決定にあなたは同意しましたか。

■R:もちろんしました。今でも考えは同じです。
裁判の後、歴史家の著述を読みましたから。

私の受けた印象では、多くの人々が天皇の役割を誤解していると思います。
彼らは日本政府の非常に複雑な構造を理解していませんでした。

●C:「広田外交」はどのようなものでしたか?

■R:それは日本の大国化をめざし、「大国の武力外交を駆逐」して
東南アジアでの覇権を確立しようとするものでした。

「アジア人のためのアジア」という思想がその背景にありました。

しかしながら、
この駆逐を軍事行動で達成しょうとしたわけではありませんでした。
その文書では次のように述べられています。

「われわれは大国ともっとも友好的関係を
維持することにつねに注意を払うべし。
われわれは努めて他国に対する刺戟をつねに避けつつ、
漸進的かつ平和的手段を用いる」。

広田外交の方針は東南アジア諸国の解放にあり、
それは経済的・イデオロギー的手段によるものでした。

すなわち、経済的な進出による構造転換、独立運動の推進、
経済的援助と助言による大衆の擁護です。

当該地域の植民地が独立を宣言すると同時に、
日本が相互援助のための条約を締結するというものです。

このようにして、ヨーロッパの植民地勢力は以前イデオロギー的に
失ったものを軍事的に回復することを阻まれるわけです。
新しい「国家」に反対する軍事行動は
日本との戦争を意味することになりますから。

日本が巨大な陸・海軍力を保有していれば、
あえてどのヨーロッパ諸国も軍事行動にでるようなことはないでしょう。
日本の保護により、かつての植民地の地位は保証されるのです。
そして、それとともに、その地域における日本の地位も上昇するはずでした。

広田時代の政府の極秘文書は、「新秩序」は
「外交政策と国防によって」建設されるべきであると明確に述べています。
しかも「この政策を実行するにあたり、
他国との友好関係を保持するように努めるべきである」とされていました。

しかし、軍事力によって
アジアから列強を駆逐しようとする意図は微塵もありませんでした。

●C:そうすると広田は
平和に対する罪にはあたらないと考えているわけですね?

■R:もちろんあたりません。もし広田外交が進展すれば、
西欧列強をアジアから駆逐することになったでしょう。
そして日本は世界の指導国の仲間入りをしたことでしょう。
しかし、それにしても彼の行為は戦争犯罪にはあたりません。

【広田の処刑はいやな体験だった。】

●C:あなたの「反対意見」における広田の無罪と
多数派決定おける死刑判決の相違は、
広田の「外交政策」の新しさの解釈にあり、
それは裁判においては大部分の人に理解されなかったというわけですね?

■R:そうです。
それは大部分の人にとっては非常になじみのない考え方だったのです。
つまり非常に新しい戦略であり、理解を得てはいませんでした。
1936年の「国策の基準」の中にある
「我が外交政策はもっぱら円滑かつ友好的方法で国家計画を遂行し」
という項目は便宜的なものとして考えられていました。

しかし、そのような解釈はこの政府文書が極秘であり、
ひとり政府部門の指針とされていたという事実を見逃しています。

●C:当時、日本の世論は広田の場合を<除き>、
東京裁判判決を大筋において受け入れていたと報道されています。
『ニューヨーク・タイムズ』には「明らかに日本人は、広田は軍の支配の
もとで道具としての役目を果たしたにすぎないと依然として考えている」
とあります。
そのような誤解にもとづいて
絞首刑が執行されるのを見るのはおぞましい体験だったでしょうね。

■R:はい。まったくいやな体験でした。
しかし、後に事態はもっと劇的に推移しました。

ご存知のように国連憲章の基本的な意図は人権の推進にあります。
1966年の二つの人権に関する条約には
自決権に対する人民の権利について同趣旨の条項があります。
国連憲章の意図する万国共通の人権の認識、
とくに民族自決の権利は植民地主義と相容れないものです。

ですから、早急に植民地制度が廃止されたことは理にかなったことでした。
1960年の植民地独立付与宣言において植民地関係は違法とされ、
後に総会で犯罪とさえ決議されたのです。

これによって、総会は民族自決のための闘争を促進することになりました。
それは「自由の戦士」を適法と認め、
国連加盟国に自由の戦士を支持するように求めたのです。

要するに、国連は民族自決の推進のための
「破壊活動」それ自体を承認したわけです。
4半世紀も経たないうちに、
国連は広田が死刑になったと同じ政策を採択することになったわけです。

●C:以前、あなたは連合軍の犯罪が法廷の多数派意見によって
不適当として除外され、弁護団は
それを証拠に編入することが禁じられたと述べられましたが。

■R:そうです。判事席に坐っている国々によって
行われた戦争犯罪を証明することはもちろん、
言及することさえ弁護団には禁じられたのです。

●C:7人の多数派意見を構成したのは誰たちですか。

■R:アメリカ、イギリス、中国、ソ連、
フィリピン、カナダ、ニュージーランド出身の判事です。

●C:しかし、どのようにして多数派ができたのですか。
投票のための会合が開かれたのですか。

■R:いいえ、判事室で討議した結果7人のグループが
構成されたわけではありません。
彼らは判決を書くことを内密に決めていたのです。

その7人は草稿を作り<既成事実>として他の4人にその成果を渡しました。
これは東京憲章の重大な違反であり、
この点で私はベルナールと意見を同じくしました。

●C:ところで、刑の執行にはあなたや他の判事は立ち合ったのですか。

■R:いいえ、私の申し出は拒絶されました。
私は、死刑を宣告した判事は刑に立ち合うべきであると考えたのです。
しかし、他の判事や占領軍当局は同意しませんでした。

●C:起訴状中の主たる訴因と法廷の多数派意見が達した結論を比較すると、
法廷の多数派意見は、(通例の)戦争犯罪と平和に対する罪の
2つの主たる訴因を支持していたと考えますか。

■R:はい、大部分の訴因は、以前ふれたように、
「不法戦争における殺人」の訴因以外は支持されていました。
裁判所は多数派意見において、
張鼓峰(1938年)およびノモハン(1939年)での
国境戦に関する訴因さえ支持していました。
それは侵略戦争と考えられたのです。

しかしそれらは(和平条約ではなく)交渉によって決着していましたし、
後に不可侵条約(中立条約)が結ばれたのです。
私の意見ではこれらの国境紛争は
第二次世界大戦の一部とはけっしていえません。

したがって、すでに法廷の管轄外なのです。
また訴因では日本が東南アジアの白人の殺害を企てたとして、
それをヒトラーがヨーロッパのユダヤ人に対して
決定した<最終的解決>方法になぞらえています。

しかしこの訴因は証明することができませんでした。
日本はアジアから植民地勢力を駆逐しようとしていました。
しかしヨーロッパ人の絶滅計画はありませんでした。

【真珠湾の復讐】

●C:東京裁判の政治的側面に話を移したいと思います。
当時、裁判の遂行にあたって主たる目的の一つとして報じられたものに、
「日本人に『犯罪はわりにあわない』ことを確信させること、

二番目に、かつての東洋の敵と固い友情を結ぶこと」がありました。
しかし、あなたは、裁判を行ううえで
アメリカ人が本当に興味をもっていたのは真珠湾攻撃の復讐であった、
という個人的な見解を述べました。

■R:真珠湾攻撃はアメリカにたいへん強い印象を与えました。
何千もの生命を犠牲にし、戦艦に多大な被害をもたらしました。
調査委員会がアメリカで設置され、ショート将軍とキンメル提督に
被害の責任があるかどうかが問題とされました。

1941年11月にワシントンで交渉が
行われたことを覚えていらっしゃると思います。
日本の行動は、アメリカ、イギリス、中国、
オランダの強い反発をさらに増幅しました。

日本側にしてみれば、もっとも重要な問題は石油の輸出禁止です。
日本はこの禁輸措置が棚上げにされることをもっとも望んでいました。

11月26日、ワシントンの見解が鮮明になりました。
インドシナ及び中国からの撤退が、
経済的特権の代価となるであろうというものです。

しかし、日本政府はそのような代価を支払おうとしなかったでしょうし、
支払うことはできなかったでしょう。
ハルの条件は戦争を意味し、彼もそれを承知していました。
「事態は今やあなたがたの手にある」と
彼はスチムソンとノックス(陸軍長官と海軍長官)に言いました。

アメリカ政府は戦争が起こることを確信していましたが、
日本によって開始されるように望んでいました。
「日本が最初に戦端を開き、
しかもわれわれがあまり甚大な被害を被らないように運ぶ必要がある」
とハルは言ったのだと思います。

それが1941年12月はじめの支配的な意見でした。
野村、鈴木(来栖三郎の誤り、以下も同じ)両大使に対する
日本政府の電文は解読されていたのです。

彼らはいずれ日本大使館の解読装置が破壊され、
それが戦争開始のサインとなることを知りました。
破壊が指定された時刻はハワイで戦端が開かれることを示していたのです。
その時刻は午前7時30分になるはずでした。

しかしハワイの司令官に特別な警告は出されませんでした。
破壊活動に対する警告が指示されただけでした。
このため彼らは戦艦や戦闘機を密集させ、
(大部分が日系の)ハワイ人による内部からの破壊活動に備えたのです。

もちろん、そうすることによって彼らは外洋から飛来してくる
日本軍の飛行機に格好の目標を提供してしまったのです。

さらに11月27日、
ハワイの司令官はマーシャル将軍からのメッセージを受けました。
それは次のような文言を含んでいました。

「もし交戦がどうしても避けられないなら、
アメリカは日本が最初に明確な行動を起こすことを望む」

ご存知のように、真珠湾攻撃はアメリカ海軍に大損害を与えました。
誰に責任があるのでしょう。
アメリカ政府は攻撃を予見していたにもかかわらず、
攻撃中止を恐れて適切な警告を与えなかった、というのは真実でしょうか。

このような警告は疑いなくハワイに歴然たる効果をもたらし、
それは東京の知るところとなって、攻撃は中止されていたでしょう。

しかし政府は日本が戦端を開くことを望んでいたのです。
この見解は、報告を受けたときの
スチムソン陸軍長官の反応から裏づけられます。
壊滅的な被害の報告を受けたあとでさえ、
彼には一種の安堵感があったように思えます。

多くの人々は真珠湾攻撃に関してはワシントンを責めました。
調査が行われた後の、いまとなってもなお同じです。

しかし真珠湾攻撃の直後は、
現地司令官の職務怠慢のせいだと考えられました。
彼らが実際に起訴されることはありませんでしたが。

事態の解決のために簡単な方法があったのです。
日本のせいだ、日本が卑劣かつ言語道断な方法で
行動を起こしたせいで高潔なアメリカ人はその攻撃を予期できなかったのだ、
と主張することです。

裁判でも、ハワイ攻撃の犯罪的な卑劣さが
アメリカ国民と全世界に明らかにされることが望まれたのでした。
マッカーサーも同様の立場をとりました。

彼は私に、東京裁判には反対である。
その理由は戦争責任に関する起訴状にある、と素直に語りました。
彼は簡潔な裁判を望んでおり、真珠湾奇襲のみを扱えばよいと語りました。
真珠湾の復讐は果たされるべきであり、真珠湾攻撃には凶悪犯罪、
戦争法規の重大違反の烙印が押されるべきなのでした。

法的に真珠湾奇襲に関する訴因はまったく合理的でありませんでした。
事実、1907年にハーグで正式な宣戦布告を行う義務についての
条約[開戦に関する条約]が締結されており、
該当する訴因はそこにいくばくかの基礎を置いていました。

1907年のハーグにおける交渉を通じて、オランダ代表は宣戦の布告と
軍事行動との間に特別な時間を算入するよう提案しました。

オランダ代表はこれら2つの出来事の間に
24時間を算入するよう提案したのだと思います。
皮肉にも、その提案はアメリカ代表の拒否にあいました。
奇襲の可能性を除外しかねないというのが彼らの拒絶の理由だったのです!

【連合国の忌むべき戦争法規違反】

●C:東京裁判が非常に多くの批判を浴びたことはもちろんご存知でしょう。

■R:東京に滞在している間、私はウィロビー将軍とテニスをしました。
彼はG2のトップでマッカーサーの献身的な崇拝者でした。
オランダに帰国する直前、
お別れを言うために彼を訪ねた時のことを覚えています。

彼は私におごそかにいいました。
「この裁判は史上最悪の偽善です」。
彼は私に、こういう種類の裁判が開かれたことで、
自分は息子に軍に入隊することを禁じるだろうともいいました。

私は、彼にその理由を尋ねました。
彼は、日本が置かれたような状況下では、
日本が戦ったようにアメリカも戦うだろうと述べました。

そしてまさに近年このことが証明されたのです。
アラブ諸国が石油の供給をストップすると威嚇したとき、
アメリカは彼らを武力で威嚇しました。

アメリカの国防長官シュレジンガーは1974年1月の演説の中で、
石油供給の保安は<軍事的>な義務であり、
武力がそれを保護するために用いられるかもしれないと述べました。

石油輸出禁止の時期の日本の石油状況を思えば、
日本には2つの選択しかありませんでした。
戦争をせずに、石油備蓄が底をつくのを黙認し、
他国の情にすがるだけの身分に甘んじているか、あるいは戦うかです。
それがウィロビーの理由でした。
そんなふうに生存のための利権が脅かされれば、
どんな国でも戦うだろうと彼はいいました。

●C:東京裁判のどこが違っていれば、
適切かつ公正な裁判になったのでしょうか? 
まず、法廷には中立国の人々が含まれるべきであったと思いますか?

■R:はい、法廷には中立国ばかりではなく
日本人も含まれるべきであったと思います。彼らはつねに少数派で、
そのため問題を決定することができなかったでしょう。

しかしとくに判事間の討議において、
いろいろなことが噂されたりバイアスのかかった
見解が出されたりしましたが、
日本人判事がいれば他を納得させるようにそれらを批判できたはずです。

たとえば日本の政府は、
欧米の民主的ないし権威的システムとは非常に異なっていました。
それは宮廷政治のシステムでした。この点について、
日本人判事が出席すれば多くの誤りを避けることができたはずです。

●C:裁判は「勝者の裁き」だったのですか?

■R:もちろんわれわれは日本で、
東京や横浜や他の大都市への爆撃や焦土化の全貌を知りました。
われわれは戦争法規を守るためにそこへ赴きましたが、
われわれが毎日目にしたものは、
連合軍がいかに忌むべきやり方で戦争法規に違反したかということでした。

それは身の毛のよだつような恐ろしいことでした。
しかし、敗者と勝者がともに裁きを受けるような
裁判にすべきだと主張しても、そんなことは不可能です。

東京裁判が勝者の裁きにすぎないという点に関しては、
東條は正しかったのです。
ニュルンベルク裁判の被告のひとりはこのように述べています。
「もしわれわれが戦争に勝っていたら、別の裁判が、別の場所で、
別の犯罪に対して開廷されただろう」。
これは全く真実です。

【ニュルンベルクと東京裁判の法的貢献】

●C:ニュルンベルク・東京裁判が国際倫理と国際法に貢献した
もっとも重要な点とは何であったのか、簡潔に述べていただけますか?

■R:まず、両方とも多くの立場から
批判されうる裁判であったことは明白です。
ふたつの裁判にはともに否定的な側面がありましたから。
ふたつの裁判で、被告は連合軍の犯罪に関する証拠を
提出することを妨げられました。
ソ連の判事はふたつの裁判に参加しました。

しかし、ソ連こそ、ヒトラーとポーランド分割の協定を結び、
ドイツ、日本と不可侵条約を締結し(日本とは中立条約)、
そうすることでヨーロッパと日本で戦争の勃発を助長した張本人でした。

それを考えると、私は、これがあらゆる重要な歴史的発展の一典型であると、
いっそう確信するようになりました。
人間のなすことは、多かれ少なかれいつでも混乱しており、
肯定的な要素と否定的な要素が入り混じっています。

歴史上、誠実かつ高貴な動機のみによって
肯定的な進歩が生じることは滅多にありません。

ふたつの裁判とも、その源に悪意があったことは真実です。
それらは政治目的のために誤用され、多かれ少なかれ不公平でした。

しかし、それらは戦争の違法化に非常に建設的に貢献し、
世界は国際関係における戦争の政治的・法的地位における
基本的な変化を強く必要としていることも事実です。

【原爆投下と終戦について】

■R:戦争は、2発の原爆の投下がなくても、また現実に起きたように、
人間性に対する罪悪感を生ずることがなくても、
日本の降伏によって終結しえたのです。

とりわけアメリカの人々は罪の意識に強くさいなまれました。
原爆が使われなければ、
勝利するためにさらに数百万のアメリカ人と日本人が犠牲になっただろう、
という結論を導くような発言が非常に多くなされましたが、
これは彼らが罪の意識を感じていたからです。

実際に戦争を終わらせたのは原子爆弾だと人びとに信じさせるために、
プロパガンダが大々的に利用されました。
2009/03/04 09:00|年表リンク用資料
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