2015年12月26日土曜日



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第一章 天下のイトマン

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 (1)大阪御堂筋と私とイトマン

 「関サン、頭が狂いはったんと違うやろか。飛行場みたいなバカでかい道をつくって、どうしはるつもりや。ペンペン草が生えてくるんと違うやろか」

 関サンとは大正末期の大阪市長 関 一 のことである。大正の末期、市長が発表した大幹線道路の建設計画に対し、市民からはこんな批判がふき出したようだ。

 「朝起きて表へ出てみたら、霞がかかって向かい側の家が見えへん」

 この道路が完成した時、沿道のある問屋の主人が大阪人特有のこんな冗談口をたたいたという。

 大正時代は、はきもの、おもちゃ、菓子の問屋などが軒を並べる狭い道路だった。この道路を拡張すべく、大正十五年に着工、十年余に及ぶ工期と、当時で 三,四〇〇万円の工費を投じて、梅田阪神前から難波の高島屋前まで長さ四.四キロメートル、道巾四四メートルの大幹線道路が昭和十二年に完成した。

 名づけて「御堂筋」という。当時の市民からは批判や反対が湧出し、皮肉まじりの冗談までとび出すような大型道路だった。御堂筋の名は、本町通りを挟んで、北に北御堂(西本願寺掛所)、南に南御堂(東本願寺掛所)と呼ばれる二大寺院があったことに由来する。

 私とこの御堂筋とは極めて縁が深い。プロローグで述べた通り、私は大阪の南区(現中央区)御堂筋の一丁東の心斎橋北詰で生れ、小学校から旧制商業学校時代までここで育ち生活してきた。

 小学校の頃の夏休みにはガキ大将に教えてもらった紐の両端に小石をくくりつけた小道具で、御堂筋の高速車道のど真中で、オニヤンマをよく捕った。夕暮れ 時には御堂筋を走る車はほとんどなく、中央の車道でこんなことができた時代だった。大阪市内の当時の自動車保有台数はわずか三千台余だったという。

 また、両端の緩行車道ではローラー・スケートに興じたり、キャッチボールをしたりして級友とよく遊んだものだった。当時は荷馬車による運送(通称「馬力」と呼んでいた)が主体で、トラックなどはほとんど見かけなかった。

 この馬力の台車の後へとび乗ったり、ぶら下ったりして、馬方のオジサンによく叱られたものだ。夏の日の暑い昼下がり、馬が耳のところに大きな穴の開いた ムギワラ帽子をかぶせられ、汗をタラタラ流しながら、満載の荷をハアハア息を荒げながら引いていた。また馬の豪快なほとばしる排尿や、膨張した時の偉大な ペニスを珍らしそうに眺めたり、まだ湯気の立っている大きな脱糞があちこちに落ちていて、その甘酸っぱいいわれぬ臭いがなつかしく思い出される。

 一方大人達は、夏の夕暮れ時には近所の商店の「番頭はん」や「丁稚どん」が、床机を歩道の御堂筋名物のイチョウ並木の下へもち出し、団扇を使いながら、 夕涼みをしていた。また蚊取線香をたいてヘボ将棋に興じている光景もよく見受けられた。豚の顔を形どった陶器製の線香立てからは、折からの夕なぎで無風の なか、薫煙が一本ゆらゆら立ちのぼっていた。

 最近の一方通行の御堂筋、集金の五、十日等の交通渋滞のひどい時には、梅田─難波間に小一時間もかかるような交通地獄からは到底考えることもできない風情だった。古きよき時代の商都船場ならではののんびりした郷愁を誘う光景であった。

 御堂筋なつかしさのあまりペンが横道へ滑りすぎてお許しをいただきたい。さて、話を本題へ戻すが、この御堂筋の本町交差点の東南角の一等地に、初代「伊 藤萬ビル」が創業五十周年に期を合わせて、昭和八年に当時の近代建築技法の粋を集めて大林組の手によって完成した。地下二階、地上七階建の近代高層ビル で、念願の本町角への進出を果したのだった。

 念願と書いたが、当時の大阪商人にとって「御堂ハンの屋根の見えるところに自分の店を構えること」それが大きな夢だったという。イトマンはすでに昭和の初期に御堂ハンの屋根を見下せる一等地に本拠を築いたことになる。

 この地はかつて西本願寺派の「浄照坊」という寺院のあった跡だったそうだ。私はこのことを迂闊にも知らなかったが、今回この原稿を執筆するにあたり調査 した結果判明した。この寺院は御堂筋建設の際、寺域の西の部分を削られることになったが、イトマンからたまたま買い取りの要請があったのでそれに応じ、お 寺は天王寺の真田山へ移った経緯があったようだ。

 新ビル完成時には、御堂筋はなお建設途上にあった。「伊藤萬ビル」とならぶ高層ビルは、同じく昭和八年に完成した大阪ガスの本社ビル(通称ガスビル)だ けだった。近代オフィスビルの代表作とも言える建物で、「建築ウオッチング」の対象にもなっており、昭和モダニズムを象徴するような建物だった。このガス ビルの八階にはフランス料理を主体とした瀟洒なレストランがあり、またリサイタルや、映画の上映ができるホールもあった。私も商業学校時代、フランス名画 ──確かジャン・ギャバンの主演だったとかすかに記憶しているのだが──を見にいった思い出がある。日中戦争の拡大とともに、大日本帝国陸軍の中国の南京 攻略他の戦果を誇示するニュース映画(独特の言いまわしのナレーションがついていた)をオヤジと一緒に見に行き、軍国教育を受けていた私は胸をときめかし たこともあった。

 先に触れた通り、私は幼、少年時代御堂筋と共に過したのだが、イトマンへ入社することにより、さらに四十年近く御堂筋とつき合うこととなった。私は御堂 筋の四季の移り変りをこよなく愛し、時間のある時は、朝の通勤時一駅手前で降りたり、土曜日の午後にもよく散策したものだ。特に秋の候名物のイチョウ並木 の色づく小雨の日、南へ急ぐ自動車群が赤いテールランプをブリンクさせながら走り、その赤ランプが秋雨にしっとり濡れた車道にゆれながら長く影を落す夕暮 れ時、そして黄色く色づいたイチョウの落葉が道行く人人の傘にパラパラと降りかかる光景をこよなく愛したものである。

 本町角の名物だった初代「伊藤萬ビル」に代る二代目の重厚なビルは、平成五年本体のイトマンの消滅とともに、住銀系のビル管理企業の手に渡り、その名も「コアビル」と改称されてしまった。

 昨年末の夕暮れ時、久しぶりに本町から難波までをゆっくり散策した。わずかに残るイチョウ並木の残葉が、折からの風にのってヒラヒラと私の頭上に舞い落ちてきた。

 私のこれまでの人生の大半とつき合ってくれ、いろいろの思い出が走馬灯のようによみがえってくる御堂筋だが、作家三田純市はその著「御堂筋ものがたり」で次のように論評している。氏は平成六年八月に死去した

 「御堂筋はキタからミナミに至る単なる交通路ではない。江戸時代から二十一世紀へと大阪の歴史を、上方の文化を串刺にした道路である」と。
  
 (2)私のイトマンへの入社

 私がイトマンへ入社したのは、昭和二十六年の朝鮮戦争終結の年だった。伊藤萬ビルは終戦後進駐軍に接収され、女子部隊の宿舎になっていたので安土町に社 屋があった。先に述べたように「伊藤萬ビル」は近代建築技法の粋を集めた高層ビルだったが、一階から最上階の七階に至るまで、各階のガラス窓に鉄製の シャッターが装備されていた。昭和二十年三月のアメリカ空軍B29による大阪大空襲によって、大阪市内は全域が火の海となり焦土と化したが、「伊藤萬ビ ル」はこのシャッターのおかげで、炎が建物の中へ入らず無キズで残った。

 御堂筋の南の大丸、そごうの両百貨店は、焼夷弾が屋上を貫通したり、窓ガラスが熱気で溶けたり、割れたりして火が建物内へ入ったため、外郭は残っていた が、黒焦げの無残な姿になっていた。「伊藤萬ビル」を設計した二代目社長伊藤萬助と、施行の大林組に先見の明があったと言うべきであろう。

 さて、当時の新社員は大卒であろうと、中・高卒であろうと全員が一様に二~三年間は荷造り、店鋪内倉庫の商品の整理、検品、出荷する商品の品揃え等に従事させられた。

 当時は自動梱包機があるわけでもなく、二人がペアを組んで、縄、むしろで商品を梱包し、縄は鎌で切断していた時代だった。馴れるまでは不必要な力をいれ るので、肩がこったり、腕や腰が痛くなったりしたものだ。しかし、馴れというのは恐ろしいもので、だんだん力の配分もわかってきて要領がよくなってきた。

 鎌で縄を切る時、余分をたくさん残しては勿体ないと、先輩によく叱責を受けたものである。綿布などは木箱で入出荷されていた。大きな木箱は、「釘抜き」 で釘を抜き開梱していたし、この箱は再利用していた。まさに現代でいうリサイクルだった。先輩からは「船場商人は一本の縄、むしろの切れ端といえども始末 し、大切に使ってきたものだ」と教えこまれてきた。

 このいわば丁稚どんを仕込む教育で、商品の仕入や加工、販売などの商売の手法以前の基礎、基本をみっちり仕込まれたのだが、この間に取扱商品の種類、そ の使用素材、具体的な得意先名、仕入先名、或いは流通経路、相場の動向等々が自然と頭にたたき込まれる仕組みだった。最近の社員教育のように、専門のイン ストラクターや講師を招へいしてのケーススタディとか、グループディスカッション等の研修法とは異り、体で自然と憶えこます丁稚奉公的色彩の強い教育手法 が残っていた。

 かくして基礎教育の終った新米は、順次営業部門又は管理部門へ夫々配属され、実践の場を通じて先輩社員によって商売の基本や社内管理システムをみっちり仕込まれ、一人前になっていった。

 イトマンはこの社員教育にも見られる通り、石橋をたたいて渡る堅実そのもので地に足のついた商法に生きる会社だった。そして信用を重んじ、お得意先、仕入先を大切にした。

 私の丁稚時代のことであるが、盛夏の候冷房もなくあまりにも暑く疲れたので、商品倉庫でキャラコ(薄地の平織り綿布)の上へ腰をかけて休んでいたら、課 長に見つかり「この商品でご飯を食べさせてもらっているんだ。その上へ腰かけるとは何ごとだ。もっと大切に扱え!!」とどえらく叱られたことを憶えてい る。またお得意先を大事にせよ、お得意先あってのイトマンだということを忘れるなと繰返し教育された。初代「伊藤萬ビル」の一階正面には、二代目社長伊藤 萬助の揮毫になる墨こん淋漓の「信用第一」の大きな額が掲げられていた。

 また、ビルの六階にはお客さん専用の特別室が設けられていた。当時は新幹線も高速フェリーもなかった時代であった。東日本・西日本各地から商談のために 来阪される地方問屋のお客さんは、夜行列車や夜間の関西汽船等で朝早く大阪駅や天保山桟橋(大阪港)に到着されて、いの一番に未だ開店していないイトマン の通用出入口をくぐって来店された。これらのお客さんのために、総ヒノキ造りの昔の桶式の風呂にはお湯がわいていて、夜行の汚れを流し、疲れをいやしてい ただくという構図だった。ゆっくり休んでいただく畳の和室も設けてあった。そしてこの間に専任の調理士がいて、朝食の準備をするという念の入った接待だっ た。同じ六階に来客専用の食堂もあり、間仕切りの窓にはカラーフルなステンド・グラスが埋め込まれているという重厚な落着いた造作の部屋だった。前夜から 旅館代りに和室で宿泊される常連客もあった。船場界隈の他の問屋、商社にはこのような設備はなかったと記憶している。

 玄関受付には機転が利き、如才ない年配の社員を長に数名の明眸皓歯の女子社員を配し、来客の送迎を丁重に行っていた。当時のエレベーターは手動式のクラシックな、「明治村」へ移設してもよいような造りの箱のようなものだった。

 これらはイトマンがお得意先をいかに大事にしていたかの具体的数例であるが、老舗らしい、ゆとりのある商売をしていたものだ。

 OB連中が集り昔話に花が咲く時には、必ずといってよいほど、この客人を接待する設備の話しや、常連の来客のエピソード等の話題がでる。一種のノスタルジアであり、古きよき時代への郷愁でもある。

 時代が移り、経済環境の変化とともに、来客用の特別設備は撤去され、エレベーターも自動式の最新のものに取り替えられたが、商売の基本である信用を第一 義に考え、本業に着実に、そしてお得意先、仕入先を大事にするという経営理念は、いかに目まぐるしい時代の変遷がありとしても、不変のものであるはずであ る。

 イトマンが永年にわたり培いその発展の底流にあった社是ともいうべき理念は、本業をそっちのけにし、バブルのあぶく利益を追い、社内ルールも無視し、乱脈経営に走るような体質を基本的には決してもっていなかったと思う。

 先に述べた通り私は昭和二十六年、このイトマンへ「古い伝統に新しい血を注入」とか生意気なことを宣言し入社した。
  
 (3)イトマンの生い立ちと発展

 イトマンの先祖は伊藤太兵衛(寛正四年~嘉永五年、一七九三~一八五五)といって、美濃国羽栗郡柳津村の出身。(伊藤家の檀那寺、大阪市西区の円照寺保 管の過去帖による)同村は現在の岐阜市の南方にあって、さらにその南には東海道新幹線「羽島駅」があるが、かつては「十年一穫」といわれた低湿地帯の貧窮 を極めた村落だったようだ。

 天保二年ころ(一八三一ころ)太兵衛は大坂(当時大阪は大坂と書いていた)へ出て、瓦町三休橋筋西入る北側に屋号を島屋、名を彦八という伊丹・池田の飛脚として有名だった老舗を譲り受け、二~三人の雇人を使って営業をはじめたという。

 太兵衛の孫の九兵衛は唐物商(洋反物商ともいい、むかし舶来品を取扱った商店。天文年間(一五三二~一五五五)から存在したという)に転じたのだが、これがイトマンの創業者初代伊藤萬助の本家にあたる伊藤九兵衛商店である。

 九兵衛の末弟の萬助は、九兵衛の唐物町三丁目にある角店の店長をしていたのだが、明治十六年(一八八三)一月二日に、いよいよ独立して南本町心斎橋筋に 間口五間半(約十メートル)の店鋪を構え、「羽州屋」の屋号で商売を開始した。店員は勘七という手代(当時の番頭と丁稚の間に位する使用人)以下わずか五 名であった。記念すべきイトマンの創業であった。世が世ならば、平成五年一月に創業満百十年の記念すべき節目を迎えていたのだが………。

 萬助の長子は幼名を卯三郎といい(明治十二年(一八七五)三月誕生)明治三十五年(一九〇二)からイトマン商店の実質経営の第一線に立ち、大正八年(一 九一九)父逝去のあとは、二代目萬助を襲名した。そして大正~昭和と戦前のイトマン発展の基礎づくりと、その上に立っての大躍進を実現したのである。

 二代目萬助の経営理念は「経営は常に積極的、進歩的でなければならない。時代より一歩先んずるように、常に研究を怠らず、調査を充分にやって、先見性を 養ない、好機到来すれば、断乎として前進することが必要だ。商機を先見する洞察力と勇猛果敢な実行力とは、商売人としてもっとも重要な資質である」という ものだった。

 また萬助は「常に『信用第一』は商売人として最も重要なことである。当り前のことであり、わかり切ったことだと考えるかもしれないが、その実行において はすこぶる意味深いものを持っていると同時にむつかしさがあるのである。この『信用第一』は人生の上においても、社会生活上においても絶対的な要諦であ る。これを失うことは、まさに致命的といわなければならない」との哲学を店員には機会ある毎に繰返し説いていた。そして自ら揮毫した『信用第一』の大きな 額を一階正面に掲げ店訓としていたことは先に述べた通りである。

 萬助はこの経営理念、哲学をバックグラウンドとして次から次へと、当時としては時代を先取りするような革新的経営手法を導入していった。営々として永年 にわたり築きあげてきたイトマンの信用と、かつての業界における不動の地位を、あらためて再認識するために具体的事例をあげておきたいと思う。

 第一に、これまでの店頭座売りシステムから、明治三十四年(一九〇一)から国内の出張販売に新販路を開拓していった。さらに明治四十一年ころ(一九〇八ころ)から、当時の朝鮮、台湾、満州など外地への出張販売にも乗り出していった。明治年間としては画期的なことだった。

 次に、自ら率先して番頭、手代三名とともに市内の簿記学校へ夜間通学し、複式簿記の基礎知識を習得した。そのうえで、明治三十年(一八九七)これまでの大福帖式の単式記帖から、複式洋式簿記への変更を断行し、会計処理の正確性を向上させた。

 第三に、毎日出荷終了後、商品の現物残と帖簿上の残高とを照合するイトマン独自の「荷合せ制度」を確立し実行した。退店時間の観念などは問題外で、毎晩 すべてが合致するまで厳密にやったので、常に商品現物は帖簿残と符合するシステムが完備された。当時としては全く他社に例を見ない驚異的な制度だった。

 さらに、明治三十二年(一八九九)には、他店にさきがけてイトマンの憲法というべき店則(現在の就業規則)を制定した。当時としては極めて進歩的な措置 であって、業界はもとより一般に大きなセンセーションをまきおこした。それを敢て決意し実行するには、よほどの覚悟と努力とを要したものと思われる。

 第五に、大正三年(一九一四)安土町店鋪の落成と同時に、店員の生活安定のため、従来の賞与偏重システムから、給料制度に切りかえ、賞与制度も併用する方法を採用した。これまた著るしい革新だった。

 第六に、本格的な輸出業務を開始するため、大正五年(一九一六)には屋号の「羽州屋」をそのまま用い「羽州洋行」を設立した。なお、中国向け輸出については、当時業界一位の地位を占めていた。

 第七に、取引の拡大、商店組織の複雑化、取扱商品品種の増加等があり、もはや個人経営では限界に達したので、大正七年(一九一八)に株式会社組織への改 組をはかり、(株)伊藤萬商店(資本金三〇〇万円)の設立をはかった。萬助社長はこれを機会に個人的同族的色彩を逐次払拭し、社会的な企業としての形態へ と移行すべきであると考え、永年の伝統と牢固として抜きがたい因習を打破することは極めて困難だったが、順次万勇を振い、革新を断行していったのである。

 さらに、新らしく「意匠部」(現在のデザイン部門)を新設し、優秀な図案家を社内で社員として雇傭し、さらに外部の図案家とは専属契約を結び、内外の図案家が呼応して「意匠で売るイトマン」の名声を高め、イトマンのすぐれた意匠力を天下に誇ることができたのである。

 昭和十二年原料羊毛の民需品に対する使用制限令がでて、従来の純毛織物に代りスフが市場に出るようになった。昭和十二年九月に開催されたスフ織物優良宣 伝大会の出品の審査で優勝したイトマンの着尺は、一柄でなんと二十万反を売るという驚異的な販売実績をあげた。当時「意匠のイトマン」といわれたデザイン 力の勝利であり、ベスト・セラー商品だった。

 最後に採りあげたいのは、前にも述べた昭和八年七月の初代「伊藤萬ビル」の完成である。問屋では初めて土足のまま売場へあがれるようにし、店員の服装も 和服(従来店内での洋服の着用は禁じられていたという現代では到底考えられない店則があった)から洋服に切りかえる等の珍らしさもあり、多数の見学者、野 次馬が連日押しかけたという。戦時中の無計画な政府の金属回収・供出令により取り外した由であるが、書類を自動的に各階へ運搬する「エアー・シューター」 の近代設備が昭和の初期にすでにあったという。

 イトマンの明治、大正、昭和初期の発展過程は、洋反物の輸入商からスタートし、繊維製品の国内販売と輸出を行なうに至った。そして本格的量産が進むにつ れて、近代的加工問屋としての機能をはっきり打ち出すに至り、染工場と提携、或いは共同経営を行うまでに発展した。一方では意匠の開発を進め、流通面だけ ではなく、加工業者をも支配し、現代用語で言えば「コンバーター機能」を遺憾なく発揮し、関西業界での中核として発展をとげていった。原料から糸、織物、 加工、製品と一貫性をもって合理的経営を実現していったのである。

 イトマンの初代のビルが本町の角に落成したある盛夏の夕暮れ時、近くの問屋の店員が、重い丁稚車をガラガラ引いて満載の荷物を運搬していたが、本町角で車を止めて、流汗淋漓、流れる汗をぬぐおうともせず、高層ビルを珍らしそうにしげしげと見あげて

 「一生懸命働いて、オレは必ず独立して店をもつんだ。そしてこのイトマンから商品の仕入のできるよう、一日も早く一人前になるんだ!」

 自分自身に言い聞かせるようにつぶやいて北へ車を引いていった。西の大阪港へ沈む夕陽が長い影をイトマン前へおとしていた。時計の針はすでに午後七時をまわっていた。

 大正末期から昭和初期に至る繊維のイトマンの全盛時代だった。まさに、私のオヤジが私の入社前に私にいみじくも言った「天下のイトマン」そのものだった。

 しかし、昭和十二年には日中事変がぼっ発し、やがて統制経済時代に入り、無暴な太平洋戦争へと突入していくのである。

第一章 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 (1)
第七章 (3) 第八章 第九章 (1) 第九章 (6) 第十章 第十一章 (1) 第十一章 (3)
第十二章 第十三章 第十四章 第十五章 第十六章 第十七章 (1) 第十七章 (4)
   目 次 プロローグ    エピローグ あとがき 巻末 参考資料

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