コメントで教えてもらいました

坂東忠信の日中憂考
『南京雨花台で毛沢東がゲロってる虐殺狂言』2015.10.13

南京の虐殺の記憶をとどめた雨花台公園には、「人民英雄碑」が建てられており、そこには毛沢東の揮毫により「国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士」(国民党政府は雨花台においてかつて30万人の共産党烈士を殺した)と書かれている
http://taiyou.bandoutadanobu.com/?eid=1235451

坂東忠信 太陽にほえたい!
『毛沢東が認めた南京虐殺の犯人』2010.7.28
http://ameblo.jp/japangard/entry-10603254540.html

雨花台
中 華門外にある広大な丘陵地帯で、名前は、六朝時代にさる名僧が説法をしたところ、感動した天帝が花を雨のように降らせたという伝説に由来する。しかし、そ の詩的で美しい響きとは裏腹に、この雨花台は中国近現代史上、おびただしい犠牲者の血が流れた場所として有名だ。太平天国軍は ここで清軍と何度か流血戦を行ったし、辛亥革命のときも清軍との間で激戦が繰り広げられた。 そして1927年4.12クーデター以来、蒋介石の手によって処刑された共産党員や 進歩的人士の数は10万人以上にものぼるという。園内には、『国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士』(30万人が国民党によって殺害された)と いう毛沢東の揮毫になる記念碑がある。またいわゆる南京虐殺の際は、一般市民を含む30万人以上の人が日本軍によって虐殺されたといわれている。現在、こ こは当時、犠牲になった人々の遺体をまつる烈士陵園となっており、中央には死地におもむく烈士をかたどった巨大な「革命烈士犠牲者彫塑群」が建立されてい る。 併設の烈士記念館には、鄧中夏や琿代英、トウ演達など多くの革命家と烈士たちの事績と遺品が展示されている。 なおここでとれる雨花石は、殺された人々の血によって赤く染まっているのだといわれる。 市の南郊、中華門外の小高い丘陵地帯にある。
http://china-redtour.com/spot/kaihou_ukadai.html
(このサイト初めて見たんですが色々参考になりまつ)
https://twitter.com/Jnkmrgenkai/status/663899015499542532

なぜそんな碑があるかというと・・
こちらの動画で分かると思います
中国共産党は中国国民党を非難していた→【wiki】南京事件 (1927年) 
(=共産党政権正当化に使った)

【ニコニコ動画】高森アイズ-南京大虐殺 へのソボクな 3つの疑問 - はじまりはいつも朝日

南京大虐殺へのソボクな3つの疑問

疑問その①
「南京」記念館は何故1985年(昭和60)まで作られなかったのか?

もし本当に首都だった南京で日本軍によって30万人もの同胞が虐殺されたのであれば、中国共産党政府は1949年の建国直後にこうした記念館を建設するのが当然ではないか。
日本では昭和20年3月の東京大空襲などで亡くなった犠牲者を慰霊し、追悼する東京都慰霊堂が、昭和26年9月に、それまでの震災記念堂を改称して、整備されている。
それに比べ、建国後36年も建設が放置されていたのは、まことに不可解だ。
恐らく解答としては、2つの可能性しか考えることができないだろう。
一つは、「大虐殺」がウソだったということ。もう一つは、30万人の同胞が虐殺されても長く関心を寄せないほど、中国共産党政権は冷酷この上ない政権であること。

疑問その②
中国の国定教科書は何故1981年(昭和56)まで「南京大虐殺」を一切取り上げていなかったのか?

中国は、わが国の検定教科書と違い、国定教科書が使用されている。共産党独裁政権下の国定教科書には、当然、共産党の歴史認識がストレートに反映されていると見るべきだ。
ところが、その教科書にしばらく「南京大虐殺」が登場していなかった。これも不可解な事実だ。
この場合も、やはり解答としては、2つの可能性しか考えることができないだろう。
「大虐殺」がウソだったか、共産党政権が冷酷この上ない政権かのいづれかであろう。

疑問その③
日本の歴史教科書は何故昭和50年(1975)まで「南京大虐殺」を一切取り上げなかったのか?

ただし、占領下に文部省によって編まれた昭和22年、同24年の教科書には「虐殺」ではなく、「虐殺行為」についての記述があった。
これが占領当局(GHQ)の意図を反映したものと見るべきことは、言うまでもあるまい。
そこで独立回復後の記述を見ると、昭和50年の教育出版の中学校教科書に「4万2千の殺害」に触れたのが最初だ。
この時の検定教科書で「南京大虐殺」に触れたのは、この教育出版1社のみだった。
この後、他社や高校教科書へと拡散して行く。
そこでややこまかく見ていくと、昭和50年度教科書の検定結果は昭和49年に発表され、検定申請は昭和48年、教科書の作成そのものは昭和47年に進められている。
この前の教科書は昭和47年度版で、教科書の作成そのものは昭和44年に進められている。
ならば、昭和44年から昭和47年までの間に、「南京大虐殺」の実在を証明する新資料の発見や新たな学問研究の進展などがあったのだろうか。
そんなものは何もなかった。ただあったのは、朝日新聞紙上での本多勝一記者「中国の旅」の連載と、その単行本化だけだ。
朝日紙上での連載が昭和46年、単行本化が昭和47年のことで、まさに昭和50年度版の教科書作成が進められていた時期である。
本多記者の「中国の旅」が日本の歴史教科書に「南京大虐殺」を持ち込むキッカケになったことは、ほぼ疑う余地がないだろう。
しからば、本多氏の「中国の旅」の信憑性はどうか。すでに中国の政治プロパガンダをそのまま垂れ流したものとして批判が多く寄せられている。
それより、日中国交樹立への機運醸成に社を挙げて力を注いでいた当時の朝日が、こうした連載と単行本を企画した動機と背景の解明が重要であろう。

結論:こうして「南京大虐殺」をめぐる事態を、これまでの研究の成果も踏まえて、大づかみに整理すれば

(1)もともと中国国民党が戦時プロパガンダとして捏造したものを
(2)東京裁判が日本断罪のために利用し、
本来ならそこで使い捨てにされるはずだったのに、
(3)日中国交樹立の時期に朝日新聞が何らかの動機と背景のもとにキャンペーンとして取り上げ、
(4)ついにその利用価値に気づいた中国共産党が、対日歴史カードおよび国内の民主化要求を反日ナショナリズムに流し込む「魔法の杖」として活用することになった。

つまりそれは、ウソのバトン・リレーと言うべきだろう。


高森明勅氏
「最初の走者は中国国民党であります。そしてそのバトンが東京裁判に渡され、そして東京裁判のバトンがですね、道端に棄てられるはずだったのが、がっちりと朝日新聞社が受け止めましてですね、懸命なダッシュをはじめた。そのダッシュを受けてですね、中国共産党は南京大虐殺については冷淡だったようであります。というのは、国民党のプロパガンダだから。それに対して共産党のプロパガンダは別にあったわけですね。それが三光作戦で す。日本軍による三光作戦。これをプロパガンダとして使ってですね、あれは国民党のプロパガンダだと。うちのプロパガンダとは違うと。思っていたんです が、なかなかこれは効き目があるぞと。いうことですからがっちり受け止めてそして走りはじめて、国定教科書に入り、そして南京大虐殺記念館が出来、そして 今回大掛かりなリニューアルまでこぎ着けたと。いうわけで南京大虐殺はウソのバトン・リレーでありました。」

参考
南京大虐殺記念館を作った田辺誠
語られざる金丸訪朝団の謎 田辺誠死去

三光作戦といえば
はだしのゲンの生むトラウマ